KGヒストリー
NO.8 ランバス博士の足跡をたどるⅡ
日本へ 教育への情熱
- 関学憲法
教育への目覚め
1973年、日本で初めてキリスト教の信仰が認められ、プロテスタントの各教派は本格的に日本伝道を開始しました。南メソヂスト協会も例外ではなく、31歳の青年宣教師ウォルター・ラッセル・ランバスをミッションの特使として日本へ派遣したのです。 当時の日本はキリスト教に対する偏見が強く伝道は難航しました。けれども、ウォルターは人々がキリスト教への拒否反応を引きずりながらも、西洋の近代文明や経済、産業、技術を速やかに取り入れようとしていることに目を向け、今までの医療伝道や直接不況とは違ったアプローチを試みたのです。それは、伝道が受け入れられる土壌づくりとしての近代教育の確立でした。
ランバスの蒔いた3つの種
ウォルターは近代教育こそ日本宣教の鍵であると考え、学校づくりをめざしました。はじめに開設されたのは、神戸元町のパルモア学院です。読書館・英和学校からスタートしたパルモア学院はやがて、阪神間の中学・高校・大学の生徒・学生はもちろん向学心に燃える青年達が集まり、キリスト教教育と英語教育の両面で高く評価されるようになりました。 パルモア学院が軌道に乗るとランバスの教育への情熱はいよいよ高まり、広島女学院、関西学院と相次いで2つの教育機関を開設しました。特に関西学院の設立についてウォルターは次のように語っています。「日本の3つのメソヂスト教派の合同が実現するまで、われわれの教育の努力は神戸に結集しなければならない。関西学院において充分な聖書教育が行われるよう、教授と設備の充実がすぐ図られるように。」 ウォルターの強い思いを受けて関西学院は現在、中学・高校・大学・大学院を擁する総合学園となり、学生・生徒数約2万人、校地面積は27万坪(約90万㎡)を数えます。広島女学院も幼稚園・中学・高校・大学・大学院を併設する女子の総合学園となり3500人の学生が学んでいます。パルモア学院もまた、啓明女学院・啓明学院と校名を変更し、現在その卒業生を継続して関西学院大学で学ばせる提携を結んでいます。 ウォルターは、中国では医療の発展に尽くしましたが、日本では教育事業の発展に尽くしました。ウォルターの蒔いた教育事業の3つの種は、互いに手を結びおのおのが大樹となって今もその教育理念を受け継いでいます。
- パルモア学院
- 広島女学院